[1995〜Erster Teil]
 

 癒えない傷は痛まない。手遅れなら必要ない。
  不治と断じたあらゆる病は、麻痺と忘却によって傷負い人を彼岸に導く。
  それは崇高なる神の慈悲。
  御許へ旅立つ愛児に対し、心安らかであるようにと。

 ああ、分かりますかヴァルキュリア……親愛なる同胞よ。
  この聖痕を抉る痛み……私があなたの代わりに受けましょう。
  癒えず、消えず、塞がらず、永劫苛む烙印などは、咎人にこそ相応しい。

 

 

「そう……思えばこれは、必然だったのかもしれませんね」

 その日、すべてが終わった後、血海と化した聖堂で神父は独りごちるように呟いていた。
 今夜黒円卓の第五位が欠損し、また二位までもが崩壊した。後者はそうなる・・・・ことこそ本懐とはいえ、事実上二人の団員が一夜にして斃れるなど、結成以来初めての事変と言える。

「すでに首領閣下が去ってより五十年、統制が乱れだしても致し方なし。なぜなら人としての我々は、寿命が尽きかけているのですから」

 齢にして七十から八十歳ほど、見た目がどうあれそれが彼らの年齢である以上、その時期は死の確率が跳ね上がる。肉の器がいくら不滅を誇ろうとも、人としての魂が死にたがるのだ。

「ああ、とても辛い。心荒む出来事ですねぇ。結局我々は、何処までいっても人間臭い。たとえ身体が滅びても、魂だけは永遠に……などとまったく、誰が言い出したことなのやら」

 それは、一般によく言われる説と正反対の現実だった。
 形あるものこそが力を持つ現世において、物質と霊質のどちらが超常化するのに困難か……要はそういうことである。
 魂のアポトーシスを拭い去るのは、容易に成せることではない。

「ゆえにこその自死衝動。まずは最初の百年が壁になると副首領閣下は仰られたが、なるほど確かにそのようです。してみれば今この時期、生じた欠番は自然淘汰と見るべきでしょうね。惜しいことだが、やはりこれも致し方なし。
 さてシスター、私は立場上、その穴を埋めねばなりません。従ってこれから先、しばらくお暇させていただきます。テレジアにはまあ、何か適当な理由で誤魔化すようにしてください」
「…………」
「承諾できませんか?」
「……いいえ」

 応じた尼僧の声は、氷結した刃のようにこごっていた。愉悦に身をよじる神父の姿が、汚物か何かのように見えているらしい。

「どうせなら、そのまま帰ってこなくてもいい。あなたはあの子を……」
「ああ、可愛らしいお嬢さんでしたね。サクライの血族にしては少々マトモすぎますが、副首領閣下がいない今、私が師となるしかないでしょう。ご心配なく。子供の教育は慣れたものです」
「……そう」

 可哀想に、と尼僧は心中で呟いていた。
 それならまだ、水星に師事するほうが幸せだろう。あの男はナマクラと見れば遺棄するが、この神父はそうじゃない。
 斬れぬ刃なら砥ぎ続ける。肉を削ぎ、心を削り、強度を度外視した剃刀を作りだす。結果切れ味を得ようとも、そんなものはガラスにすぎない。
 あの少女の人生は終わった。そして彼女の……

「それではこれで、カインの処置はあなたのなさりたいように。キルヒアイゼン卿の弔いは……まあ必要ないでしょう。
しょせん大局を見誤った愚かな女。黒円卓の恥部にすぎない。
 リザ……あなたもそうならないよう、お気をつけなさい」
「分かっているわ」
「ならばよろしい。ただ憎め、真に私を憎め、 愛しい我が同胞よHasse nur, hasse mich recht, Feindlichs Geschlecht

 時は1995年――大戦より半世紀を経た、一つの節目にあった出来事……
 この日を境に何かが狂いだしたことを、尼僧はもとより、神父もまた分かっていない。