[Hinterbuhne 〜 Krebs/Steinbock]
 

 たとえば、東洋には蠱毒と呼ばれる術がある。
 様々な毒虫、蜥蜴、蛇などに共食いをさせ、最後に生き残ったものを呪いの媒介にする一種の外法――と言えばいかにもおぞましいもののように聞こえるが、そのシステム自体は特に珍しいものでもない。
 健全の代名詞と言えるスポーツでも、まず選手になるための訓練でふるいにかけられ、それに生き残れば最後の一人になるまでの勝ち抜き戦が待っている。生存競争の末に最強のものが選ばれるのは、あらゆる世界に共通する自然の摂理と言っていい。
 ゆえに強い執念、願望を持つ者たちが複数集えば、そこは蠱毒の壷となるだろう。
 競い合い、奪い合い、殺し合い、喰らい合い。
 彼らは限られた席を賭けてあい争い、弱者が強者の糧となる。

 そう、今より六十数年前、黒円卓というを生み出すためだけに、世界が火の海と化したように。
 今また、この現代で、あのときと同じ蠱毒が行われようとしているのだと――

 かいつまんで要約すれば、ヴィルヘルム・エーレンブルグが受けた話はそのようなものだった。


「つまり我々は、今も昔も副首領閣下に玩弄されているわけですね」

 そう自嘲気味に言った男は、名をハダド・セイドと名乗っていた。病的なほど痩身で髑髏めいた異相の怪人物だが、その物腰は柔和であり静かである。
 ニューヨークはマンハッタン、俗にヘルズキッチンと呼ばれるスラム街のヴァンパイア・バーは、いわゆるアンチ・キリスト的、中世サバトの情景を彷彿とさせる外連味のきいた内装が施されていた。店内に流れる大音量のスラッシュメタルも、防音設備が整ったこの特別室には届かない。ここにいるのは彼ら二人と、息を荒げて充血した目を瞬かせている女たちのみである。ブラッディマリーにドラッグでも混ぜているのか、明らかに発情し、正気を逸しているものの、男たちはそんな雌の痴態など眼中に入れていない。

「不本意ですねぇ、実に実に不愉快だ。しかしとはいえ、我々がすべきことは変わらない。聖餐杯猊下の勅命が下された以上、各々速やかにシャンバラへと馳せ参じなければいけません。――お分かりですね、ベイ中尉」

 対面に座す六十年来の友人に水を向けられ、ヴィルヘルムは鷹揚に頷いた。
 言われなくとも、この召集を無視する気は毛頭ない。蠱という表現は些か以上に不快だったが、それに甘んじるかどうかは己自身が決めることだ。いずれにせよ、彼の地に赴かなければ事は始まらないのである。

水星クソの妄想なんか知らねえよ。あいつが何考えてようが、俺は俺のやりたいようにやるだけだ」
「然り、中尉殿の仰る通り。我々は個々の目的達成にのみ心血を注ぐべきでしょう。それが首領閣下への背信にならぬ限り、誰に文句を言われる覚えもない。
 ですが、だからといって足の引き合いも避けたいところだ」

 つまり、要は同盟交渉をしに来たのか、とヴィルヘルムは肩をすくめる。

「心配しなくても、俺はおまえに喧嘩を吹っかけるつもりはねえぞ」

 元来、黒円卓を掌握し、その足並みを揃わせたのは獣に対する畏怖と忠誠、そして水星への憎悪である。同じ思考を共有する連帯感が、彼ら唯我独尊の曲者たちに仲間意識を芽生えさせたと言っていい。
 先の玩弄云々は、それを思い出させるための前振りといったところだろう。相変わらず婉曲で小賢しい真似をする男だが、ヴィルヘルムも彼のそういうところが嫌いではない。

「これでも一応、協調性はあるほうなんでな。世界に八人しかいねえ仲間と揉めてどうすんだよ。……ああ、そりゃ一人二人は、半端崩れのハグレもいるが。
 少なくとも俺ら、戦友は兄弟みたいなもんだろうが。違うかよ?」
「確かに、あなたの仰るとおり、我らは同じ師を持つ同門ですがね」
「おまえの地獄耳に、何か胡散臭え情報でも入ってきたのか?」
「遺憾ながら、そういうことになりますか。ゆえに用心と注意勧告をしたいと思い、こうして立ち寄った次第です。ヴァルキュリアのようなことが、また起こらないとも限らない。
 なにしろ女性という存在は、とかく感情的で面倒だ。ですからこういった話ができる相手は、あなたか聖餐杯猊下しかおられない。――中尉、これから先話すことは、どうかご内密にお願いします」

 嘆息しつつ言葉を切って、男は手にしたグラスを一口煽ると、先を続けた。

「どうやら我々は、此度の戦で全滅するかもしれません」
「……なに?」

 また唐突に、聞き捨てならないことを言う。その台詞にヴィルヘルムの眉が上がり、目には剣呑な光が灯った。

「全滅ってぇのは、どういうことだ?」
「つまり残存の八名、私やあなたも含めた全員ですよ。オデッサに宣伝省あがりの星視がいまして。彼が言うには、金牛宮、双児宮、巨蟹宮、獅子宮、処女宮、天蠍宮、磨羯宮、宝瓶宮……これらすべて、極東で果てるとか。私たちはシャンバラから生きて出ることができないらしい」
「…………」
「もちろん、一笑に伏しましたがね。それでも用心に越したことはないでしょう。中尉殿は、この話をどのように解釈されます?」

 どのようにも何も、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。だが、強いて可能性をあげるなら……

「例のアレか、メルクリウスの代替がそうすると?」
「さて、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ですが考えてみてください。我々を単独で滅ぼせる者が、この世に存在するのでしょうか?」
「いねえな」

 即答で断言する。そんな者などいるはずがない。

「でしたらば、有り得るのは同士討ち。各々が足を引き合い自滅すること。これはあながち、ゼロではない……ように私は思える」
「なるほど」

 占いなど屑ほども信じていないが、仮定の話であればそう考えるのが妥当だろう。しかしどのみち、どうなろうと自分は自分の道を行くのみである。仮にシャンバラが団員同士による蠱毒の壷になろうとも、それは何一つ変わらない。もとより敗北を許容できる精神など、彼は持ち合わせていないのだから。
 敵対すれば誰であろうと必ず殺す。その手の局面において、決してヴィルヘルムは揺るがない。

「とりあえず、そこそこ面白ぇ話をありがとよシュピーネ。しょうもない与太とはいっても、くたばる確率が少しでもあったほうが戦場らしい。一応、頭に入れといてやる。
 それで、どうにもキナ臭くなってきたが、おまえはどう立ち回る気だ?」
「無論、私は私で用心深く行きますよ。少なくとも現段階で、あなたと猊下にその気がないと分かれば個人的に問題はない。
 ああ、ところで、今夜の私は別の名前を名乗っていたはずなのですがね」

 と、いきなり益体もないことを言われたため、ヴィルヘルムは失笑した。

「ハッ――悪いな、すっかり忘れてたよ。しかしおまえさん、いい加減適当な偽名を使う癖、止めたらどうだよ」
「まあ、これも一種の保険とでも言いますか。旅に出るとき、財布を複数持っておくのと同じようなものなので」

 言って朗らかに笑う同胞を、呆れながらも歓待するヴィルヘルム。

「そうかい。とにかく、わざわざ来たんだ。今夜くらいはこのまま好きにってけよ。酒でもコレでも――」

 彼は今、この相手に見切られたという事実に気付かない。己が死ぬなど微塵も考えない傲慢さゆえに、その可能性を深く吟味できなかったことに気付かない。

 彼ら八名を、単独で殺せる者なら存在する。
 いや、正確には存在したのだ。
 そういう者を、いま再び戻そうとしている危険性。
 それに気付かない愚かしさ。

“この男は駄目だ――”

 微笑しながらも冷えた心でそう断じたシュピーネは、しなだれかかってくる女たちを適当にあしらいながら考える。
 ああさて、となれば残るは聖餐杯ただ一人。あれはあれでかなり複雑な男だが、それでも遠くの水星バケモノよりは手近な狂人のほうが親しみやすい。
 そこまで考え、ふと意味もなく、彼はくだらないことを口にした。

「中尉、もしかして我々は、以前もこのようなことを話し合ったのかもしれませんね」
「はあ? なんだそりゃ?」
「いえ、特にどうというわけではないのですが……」

 瞬間、脳裏によぎったひとつの既知感デジャヴ……埒もないと言えばそれまでだが、何故か無視を決め込む気にもなれない。
 仮にこれが錯覚でないとするのなら、自分や彼や他の者ら……各々の望みと願いと祈りもまた、すべて獣と水星に掌握されているのではないだろうかと……
 不意に生じた些細な疑問に、しかし今は誰も答えられない。

 ただその時が訪れる怒りの日は、刻一刻と迫っている。