ポーカーをしましょう。
  1995年12月――小雪の舞うブダペストで、古城を改装したというホテルの一室に足を踏み入れるなり、部屋の主は開口一番そう言った。
  客をもてなす態度としては論外であり、そもそも突拍子が無さ過ぎて十中十人が呆けるしかないだろう。事実、ゲームを持ちかけられた女性は目を丸くし、この奇怪な応対に戸惑っているようだ。
  場所も季節を弁えず、露出の多い薄手のパーティドレスに身を包んだ彼女もなかなか珍奇な人種と言えるだろうが、アンティークチェアーに座したまま微笑している白髪の少女は、さらにどこかずれている。背後に控えた従者らしき二人の男は無言のまま、彫像のように動かない。
  目で促され、対面に座した女に向けて少女が言った。

「あなたの疑問、いえ不信感と言うべきかしら。ともかくそれを解消するには、こうするのが一番手っ取り早いと思いますの。俗世の方は、何事も実地に体験しなければ認めないと聞きますし」

 決して大きくはないが、よく通る声。少女の言葉は、脳を貫通してくるようだった。
  年齢は十四・五歳に見える。だがひどく老いているようにも見える。子供が子供であることを許されなかった者特有の老成した空気を纏いながら、常時夢を見ているような浮遊感が同居した佇まい。
  端的に言って、常人ではない。生息する階層が妖精郷にあるような、そうした印象を与える少女だ。
  行儀よく膝の上に組んでいた手を上げて、彼女が告げる。

「フォルカー」

 その一言で、従者二人のうち一人が動いた。執事風の身なり――ただし帯剣している老人は不動のまま、僧衣の青年が棚からトランプを取り出し、慣れた手つきでシャッフルを始める。
  それはいい。それはいいのだが問題は別にあった。

「私のせいじゃあ、ないわよね?」

 淑女と娼婦の中間めいた笑みを浮かべて、女が問う。シャッフルを続ける若者は、完全な無表情で答えない。
  その手つきに一切の淀みはなく、まるでそれしか出来ない機械のように思われた。僧衣の股間が、雄々しく隆起していなければの話だが。

「まさか、カードに欲情する性癖というわけでもないでしょうけど」
「気になさらないで。ああ、でも、あなたのような女性を前に、反応しないというのも失礼にあたるのかしら。
  わたし、そういう機微はよく分からないのですけれど、ご気分を害されたのなら謝罪いたしますわ。彼はいつもこうなのです」
「いつも?」
「はい。忘れられない情事に心奪われているのです。男性は少なからずそういうところがありますが、フォルカーは一途で純情なのですね。わたしも女の端くれとして、彼のような者がいるのは喜ぶべきことだと思います」
「確かに、貴重ではあるでしょうね」

 ここにいない誰かを思いながら、今この時も肉の記憶に溺れている青年……フォルカーとやらの思考が見えているような言い草だったが、女はそのことについて言及しない。ただ配られたカードを手に持って、言われた通りポーカーを始めるだけだ。
  結果は、予想していたものと異なっていたが。

「わたしの負けです」

 コールどころか、まだ何もしていない状態での一方的なフォルド。少女の手札がどんなものかは知らないが、女の方も別に大したものではない。現状、単なるノーペアである。

「なぜ私の勝ちだと?」
「だってあなた、スペードの7とJを捨てるつもりなのでしょう? 次の二枚はダイヤのAと9。それでスートがそろってしまいます。フラッシュですわね。その後わたしはどうしても、ツーペア以上の役を作れません。完敗ですわ」
「…………」
「イカサマは嫌いというか苦手なのです。わたしは技術でなく、力に依るものなので。見えているということと、それをどう活用するかは別次元の話でしょう。
  ご理解いただけましたでしょうか。これをもって、自己紹介としたいのですけど」
「……ええ、心を読むのは聞いていたけれど、まさか透視も出来るとはね」

 イカサマでないのなら、今の真似はその二つがなければ絶対に成されない。ある種の可笑しさを覚えながら、女は心中で呟いた。サイキックの怪物という触れ込みは、どうやら看板に偽りなしであるようだ……と。

「褒め言葉と受け取っておきましょう。せめて枕に可愛らしいと付けていただければ嬉しかったのですが」
「あなたを前にすると、口を開くのが馬鹿らしくなってくるわね。連れのお二人が無口なのは、そのせいかしら?」
「さて、どうでしょうね。ですがわたしは、会話自体好きですわよ。本音と建前というのでしょうか、そうしたものに魅了されてなりません。
  人間は娯楽として完成されていると思うのです。わたしにとって、世界は名画と名曲に満ち溢れている。ええ、あなたの人生も……」

 言葉を切って、少女は上目遣いに女を見てくる。瞬かないその瞳は、猛禽の眼光に酷似していた。

「アメリカ中央情報局、パラミリタリー、通称(コード)生ける死者(リビングデッド)。あるいはもっと端的に、身元不明(ジェーン・ドゥ)でいいかしら。アイリーン・カートライト中佐殿」
「――――くっ」

 そこで我慢の限界が来たらしく、女は一瞬俯いて腹を押さえ、次いで仰け反ると弾けたように笑いだした。

「あは、あは、あはははははははは――」
「今後は親愛の情を込めて、ジェーンとお呼びしても構いませんか?」
「ええ――ええ、お好きにどうぞ。だけど、うふふ、あははは、まさか本名まで当てられるとはね。私自身忘れていたのに」

 おそらくこの少女にとって、人間は映画のフィルムか本のように見えるのだろう。当人が忘れていようが何だろうが、その人生に刻まれたものを隠匿することは出来ない。
  それでこそ、ああそれでこそだと女は思う。狂った情報を持ち込もうとしている自分のような者にとって、交渉相手はこれくらいでなければ話にならない。

「東方正教会双頭鷲(ドッペルアドラー)、局長ジークリンデ・エーベルヴァインです。お見知りおきを、ジェーン」

 誰も信じてくれなかった。誰も理解してくれなかった。ゆえにパラミリは動かせず、脱走同然に単身ここまでやってきたが、そんな憤りや不満はもう吹き飛んだ。
  これでいい。こうでなくてはいけない。世界最新最強を自負していながら、常識の枠内でしか物を計れぬ古巣(アメリカ)など、この戦いには邪魔である。
  ダンスマカブルなら死者同士、壊れた者同士でやればいいのだ。自分や、そして彼女のような。

「今さら説明は不要でしょう?」
「はい、来たるクリスマスに向けて、蛇の眷属が極東に集うのでしょう。もちろん我々も存じております」

 変わらぬマネキンのような微笑を湛えて、鷲の頭目――ジークリンデが首肯する。蛇とは無論言うまでもなく、この少女らが不倶戴天とする亡霊たちだ。

「黒円卓に関する諸々は、西側だとお伽話になっていると伺いました。冷戦で腐敗したのは、人の率直さとでも言うべきでしょうね。核兵器を何万発も造ったせいで、幻想が木っ端微塵になったのでしょう。あくまで彼らの頭の中ではの話ですが」
「だったら内の一発くらい、日本に叩き込めと言いたそうね局長さん」
「いいえ、そんなことに意味はありません」

 短く、そしてきっぱりと、現人類が保有するおよそ総ての事象に対する最終的解決手段を、ジークリンデは一蹴した。

「それは全スワスチカの同時開放を意味します。あの街の住人は、生贄なのですよジェーン。基本として、捧げさせてはいけない。
  爪牙の二・三本は折れるかもしれませんし、核となる翠化を負荷で壊せるかもしれない。ですが、どうでしょうね。レーベンスボルンの落とし子は世界中に散っていますから」
「あなたのように?」
「はい。しかもその枝葉となれば、総て特定するのはもはや物理的に不可能です。まだ何処かに出来の悪い緑がいるかもしれず、それが翠を産むかもしれず、加えてスワスチカは他にもある。発生しえる。
  そうして一発、また一発、疑わしきを罰する心地でニガヨモギを落としていくといたしましょう。するとあら不思議、いつしか世界規模の鉤十字が完成していることになる。――と、わたしは考える次第です」
「なるほど」

 この少女が持つ異能は、おそらく他にもあるのだろう。その一つが今の自論を展開させているに違いない。都市部への核攻撃など沙汰の外にある話だが、何らかの事情でかの街が祭壇足りえなくなったとき、さらに性質の悪い呪いが発動するようになっているのだ。有り得そうな話である。

「カール・クラフトを甘く見てはいけませんわよ。悪魔の頭脳と競ったところで、人間性の浪費です。我々は、もっと正攻法でいきましょう」
「つまり、正面からぶつかると?」
「あなたからして、それを望んでいるではありませんか。そしてわたしに、その手段を求めている」

 否定は出来ない。だからこそ、今日ここに来たと言えるのだ。
  幻想には幻想を。頷いてから、ジェーンは訊いた。

「具体的には?」
「兵は我々が出しますし、あなたも幾らか動かせるでしょう。それで二個中隊といったところですかね。賞金を餌にフリーランスを釣ればもっと集められるでしょうけれど、あまり大所帯になりすぎても統制が取れません。このあたりが妥当な線かと」
「兵?」

 それは本気で言っているのか? 目の前の少女がどういう存在か分かっていながら、そう訝るのを止められなかった。ふざけているとしか思えない。

「私は以前――」
「ベトナムで、吸血鬼に部隊を壊滅させられたのでしょう? それであなたはリビングデッドになってしまった。ええ、無論存じていますわ」

 だったらなぜ、意味のない物量などを提唱するのか。それはあくまで対等同士、人間同士、彼と我が殺し合える状態を前提にした案である。いみじくも今ジークリンデが言ったように、相手は鬼だ。人ではないのに。

「それくらいにしておいてはどうですかな、局長」

 と、これまで何の反応も示さなかった従者の一人が口を開いた。見る限り七十年配の老人だが、枯れた様子は微塵も無い。柔らかだが重みのある男性的なバリトンで、小さな主を窘めている。

「心の揺れを愛でるのも結構ですが、悪い癖と言うよりありませんな。皆、あなたほど察しがよくはないのですよ」
「つまり、端的に言って回りくどい」

 カードを仕舞ったフォルカーも、追随してそんなことを言う始末。どうやらこの主従たち、見た目ほどシビアな上下関係ではないらしい。それを肯定するかのように、ジークリンデはわざとらしく肩をすくめた。

「せっかく気分が乗ってきたのに、無粋ですわね二人とも。わたしはただ精いっぱい、彼女を楽しみたいだけですのに」
「それでは数日話し続けても終わりますまい」
「僕のときは十日かかった。思い出したくもないし、また見たくもない」
「ちょっとどう思いますかジェーン。誰かを理解して友情を深めるのに、そのくらいの時間は不可欠だと考えるのですけど」

 人生と人格の総てを覗き、租借し終えるまで十日ほど。それを長いと見るか、短いと見るか。
  だが何にせよ、その間喋り続けられて逃げられないというのは拷問でしかないだろう。

「私は、そちらの紳士の意見に賛成するわね。あなたほど察しはよくないので、残念ながら」
「まあ、つれないこと。ひどいですわ。あなたのせいよ、アルフレート」
「で――」

 埒が明かないと考えて、アルフレートと呼ばれた老人へ目を向けるジェーン。返ってきたのは、簡潔明瞭な一言だった。

「フランスへ行きたまえ」
「フランス?」
「そうだ、そこに切り札がある」

 ぞんざいにそう付け足すフォルカー。

「言わばわたしたち流の核兵器というやつですの」

 ジークリンデは相も変わらず、夢の世界を浮遊しているような声で言う。

「ルーヴル美術館の非展覧セクション――元CIAの伝手でもあなた自身の武力でも、なんでも構いませんから掻っ攫ってきてほしいものがあるんですの。わたしたちがやってもいいのですけど、これも入信の儀式と思っていただければ」
「君もこれから、鷲の羽になるというなら」
「総てはそこから、後に僕かアルフレートが簡潔に説明しよう。心配は要らない。局長には喋らせないから」

 ともかく“それ”を持って来い。
  狂気にも似た圧力を叩きつけられ、ジェーンは悟った。彼らもまた自分と同じく、追い求めている至高の瞬間があるのだと。
  ならばもはや論ずるに及ばず。不滅の戦鬼を相手に本気で殺し合うつもりなのだと確信できれば、彼女にとって不満はない。

「じゃあ、何を――」

 奪ってくればいいのかと訊いて、聞いて、頷いたジェーンは席を立った。そのまま踵を返して部屋から出て行く。背中にジークリンデの声が届いた。

「ラインハルト・ハイドリヒを斃す。カール・クラフトを滅す。そんなことは出来ません、不可能です。彼らは怪物。次元が違う」

 でも、と含み笑いながら間を置いて。

「聖餐杯はその限りじゃない」

 だからヴァレリア・トリファを誅戮しましょう。それが結果的に総てを崩す。
  謳う妖精郷の住人は、甲高い笑い声を響かせて延々と死刑判決の文言を垂れ流していた。
  ドアを閉めて、廊下を渡り、階段を下りている今もまだ聞こえる。あの、脳髄を貫通してくるような少女の声が。

「だったら、ねえ、局長さん」

 独り言だが、間違いなく相手には聞こえているだろうことを踏まえたうえで、ジェーンはぽつりと呟いた。自分にとってはどうでもいいことであるものの、ちょっとした些細な疑問。おそらくは誰一人として分かっておらず、ゆえに世界中の諜報機関が、黒円卓を度外れた戦争犯罪人以上には見ていないという現状(いま)の原因。
  もしかして、唯一ジークリンデ・エーベルヴァインだけは例外的に、それを知っているのではないのかと。

「結局、スワスチカとやらを開き切ったら何が起こるの?」

 答えは、吹き付ける雪と共に返ってきた。

『それは彼女に訊いてみなさい』
「―――――――」

 身の強張りは、脳に響いた声のせいでも、開け放たれた玄関からロビーに吹き込む寒気のせいでもない。白銀に染まったブダペストの街を背負い、現れた者があまりにも凄烈すぎてリビングデッドの血を凍らせたのだ。
  見た目は小柄な、十代後半程度の少女である。目を引く美貌の持ち主だし、気品を感じさせるプラチナブロンドは確かに印象的と言っていい。
  だが違う。違うのだ。この少女を評するに当たり、そんな外面のあれこれなどまったくもって意味を成さない。
  だってそう、少なくとも、これは人間の気配じゃないと知っているから。

「ああ……」

 知らず喘ぎにも似た声を漏らし、ジェーンは左胸を押さえていた。かつて自分がアイリーン・カートライトであったとき、これと同種のモノを見たことがあるのだ。
  ベトナムの、密林で。
  知っている。知っているぞ。
  数千の人間が一度に歩いているようなその気配。
  私を死体(デッド)に変えた彼と同じ。
  死者の軍勢(レギオン)が目の前に在る。

「落ち着きなさい」

 いつの間に移動したのか、気付けば少女はジェーンのすぐ脇にいた。そのまますれ違っていきながら、外見からは想像もつかない冷めた声で短く告げる。

「あなたと戦うつもりはありません。だから抑えて、私にそんな物は効きませんし」

 無意識のうち、抜き放とうとしていた銃を指して無駄だと言う。だがそれよりも――

「そこに小さな子供もいるでしょう。やめてください、危ないですから」
「は……?」

 子供? 小さな子供だと?
  なんだそれは? なんだそれは? おまえのようなモノが何を言う?
  あまりのことに放心し、呆気に取られていたのは十秒ほど。その隙に少女は影も見えなくなっており、ジェーンは取り残されていた。

「子供、子供ねえ……」

 ああそう、確かに今気付いたが、そんなようなものがそこらにいる。ここは普通のホテルだし、それは当たり前のことだろう。
  なぜこんな所を会合の場に指定したのか不明だったが、これでやっと得心した。つまりダブルヘッダーで、要はあの少女に対する警戒なのだ。馬鹿で愚かで青い小娘への牽制球。

『ご名答。半分は』

 脳を貫く声が笑う。

『だけど小娘はひどいんじゃないかしら。あれはあれで、もう結構ないい御歳よ?』
「だからなんだと?」

 失笑すら漏らしてしまう。百歳だろうが千歳だろうが、小娘は小娘だ。こんな程度の縛りで行動が制限される半端者には、愚鈍と言ってもまだ足りない。

『まあ、現状それに守られているわたしたちが言うべきことじゃあないでしょうけど』
「確かにね。それで、もう半分とは?」
『ああ、ちょっと彼女に、自分の子供時代を思い出してもらいたかったんですの。何というか、幼年期の思い出って、ある意味胸を抉るものでしょう?』

 意味はまったく不明だったが、どうやら悪戯を始める気らしい。ジェーンはくつくつと喉を震わし、愉快さで掠れる声を言葉に変えた。

「せいぜい好きにいじめてあげなさい、局長さん。この目で見れないのは残念だけれど、後々聞かせてもらうから」
『ええ、楽しみにしていてください。それじゃあジェーン』
「分かっているわ。すぐにご希望の品を持ってくるから」

 はたからは独り言を漏らしているとしか見えない彼女を、ロビーを駆け回っていた子供の一人がぽかんとした顔で見上げている。それに笑顔を返してから、パーティードレス一枚の死体(デッド)は雪の降る街へと出て行った。

 そう、この心臓は動かない。ゆえに寒くないし歳も取らない。
  総ては再び、もう一度、彼に逢うまで、愛されるまで……