「……こんなところにあたしを連れ込んで、いったいどうする気よ?」
「バカヤロー、助けてやったんじゃねーか」

やっぱり、無理矢理男子トイレの個室に連れ込んだのはまずかったかもしれない。
やけに怯え、警戒した口調で、彼女は僕を見つめる。
彼女には訳がわからないだろうから、無理もない。僕にだって何故自分がここでこうしているのか、理解不能なんだから。

いま叫ばれたら、警察沙汰だな。
足音と共に、呼び声が近付いてくる。ふと思う。
この女のからすれば、狭くて汚い男子トイレで見知らぬ男と二人きりより、喧嘩していたはいえ旧知の彼氏の方が安心だろう。どう考えたって。
クソッ、なんでこうなったんだ。
僕は、覚悟を決め身をすくめた。
……だが、彼女は叫ばなかった。
狭い個室の中で、唇をキッと噛みしめたまま、ただ、黙って足音が通り過ぎるのを待っている。
案外、睫毛って長いんだな。
身をすくめながら、僕はなんとなしに、目の前数十センチにある横顔に見とれた。
はっきりとした目尻、艶やかな黒髪。柔らかそうな頬。薄紅色をした唇。
と、その顔がこちらを向く。

「説明してもらうからね」

呆気にとられる僕の前で、高らかに宣言すると、彼女は突然勢いよくドアを開けた。

 

「ふん。あたしをこんな……自分は助かろうなんて甘いのよ!」

高らかな声を聞きながら、僕は仰向けになり、ぐったりと波間に漂った。

どうしてこうなるんだよ……

「おい、ついでだからヨットの様子も見てきてくれよ」

あいつも勝手なこといいやがって……別にいいけどさぁ……
言い返す元気も無いままに、僕は沈んでいるディンギーへと泳ぎ寄った。幾度かその周囲を潜る。

ワイヤーで、何か縛り付けてあるんだな。
どうやら船体(ハル)そのものには致命的な損傷は無さそうだった。それを確認すると、岸壁へと戻る。

「だいたい判ったぞ。多分、重しをつけて沈められてるだけ……ちょっと待て!」

痛っ!僕が、岸壁をよじ登ろうとすると……そこには、仁王立ちの彼女が居た。
全身びしょ濡れのまま、右足を軽く持ち上げて身構えている。濡れた髪がまといついたその表情は、喜びに歪んでいた。
ふざけんなっ! よせっ!
僕が手を伸ばして岸壁を掴むと、彼女は勢い良くローファーの踵で踏みつけてくる。

「あんた、まさかこのまま大人しく上がれると思ってんじゃないでしょうねぇ……まさかそんな、ねぇ」

「……判った。さっきのは僕が悪かった。謝る。だから」

「謝って済む筈ないでしょ! このっ! このっ!」

「痛っ! ……パンツ見えてんぞ」

「関係ない! っていうかもう絶対許さない! いま決めた!」

最初っから、許す気なんかないだろ!岸壁沿いに左右に泳いでも、どこまでもしつこく彼女は追いかけてくる。
結局、僕は運河の対岸まで泳ぎ、そこから上がるしかなかった。

 

「シッ! 誰かこっちに来る」

なにっ!
訳を問おうとしていた僕は、その言葉に固まった。
来るって……工場の関係者か!?
予想外の一言に動転する僕の耳に、本当に足音と人の話し声が聞こえてくる。

ど、どうすりゃいいんだ!
これ以上近寄られたら、間違いなくヨットの存在がバレる。僕は、頭の中が真っ白になった。その時、

「……誤解しないでよ」

小さく、耳元で榎木田が囁いた。
えっ?

柔らかい……
腰から背中にかけて、温かい、包み込むような感触。胸にあたるくすぐったいような膨らみ。
ぶつかった歯が、カツン、と小さく鳴る。
僕は驚いて、目を見開いた。と、極至近距離で、視線が合う。

「バカッ……瞼くらい、閉じてよ」

僕は慌てて、ギュッと目をつぶった。
な、なんだ!? 何事だ!?
だが、狼狽も、その感触を味わうのも、ほんの一瞬だった。

「こら! そんな所で何している!」

……頭上から響いた声が、その全てを終わりにした。

 
「ほら、早く来なさいよ!」

まぁ、たまにはこういうのもアリか。
僕は、瞼を細めて目の前の砂浜を駆けていく榎木田を見つめた。
ウエットスーツのインナー用に、僕らはいつも家から水着を着て来ている。だから服を一枚脱げば、すぐ海で泳げる。
シャワーや更衣室を使わなければ、海水浴にお金はかからない。交通費だけだ。

帰路は、浜川崎経由で戻ればいいことだし。

「なんかすっごい久しぶりじゃない? こうやって、普通に海で遊ぶの」

「……そうなのか」

美潮が、僕たちと居ない場所で何をしているかなんて知る筈がない。当然のように聞かれても困る。
しかしまぁ、一般的に夏の海っていえば、こういう場所のことだよな。毎日、工場地帯のど真ん中に通い詰めている僕らの方が異常なのだ。

「でも、妙な具合に焼けちゃってるからちょっと恥ずかしかったけど、似たような人、他にも結構居るわね」

「ウエットの跡だから、多分サーファーだろ」

僕も榎木田も、毎日着ているウェットスーツのせいで、腕も足も中途半端な位置から焼けている。

「みたいね。……ほら、ドブ臭くない海ってやっぱりいいわよね」

上機嫌で手を振る榎木田から、僕はたまらず視線を逸らした。
いつも、そんなビキニ着てたか?
台風の余波で風が強いとはいえ、海水浴には絶好の日和だ。あたりには水着の男女が腐るほど群れている。

なのに……榎木田の水着姿は、やけに眩しかった。
日に焼けてない肌が白いから……多分、そのせいだよな。
毎日ヨットで海に出ていても、目にするのは黒いウエットスーツ姿だけだ。下に水着を着ているとはいえ、着替えの時に目をそらす程度のマナーは心得ている。

それに、こんなに細かったか? こいつ。
だから、水着姿をはっきりと見た事なんてなかった。

 

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